19世紀末に、新しい時代の装飾様式として登場したアール・ヌーヴォー。当時、インテリアにお金を使う余裕のあるブルジョワ階級の人々は、アール・ヌーヴォー様式で自宅のインテリアを隅々まできれいに飾ることに熱中しました。
主役は誰?
ところが、ある様式を強く押し出したインテリアは、細かい所まで同じスタイルで揃えないと釣り合いがとれません。
少しでも異質なものは神経質に排除していくことになります。そうして出来上がった家において、主役は住人ではなくその「様式」であり「装飾」です。
例えばアール・ヌーヴォー様式の家なら、訪れた人の記憶に残ったのは、住人と交わした会話やその時の彼の表情、一緒にとった食事、そういったものより、室内のあらゆる場所におびただしく生い茂る植物のような曲線の装飾だった、ということにもなりかねません。
「そんな空間は白々しく、親しみを持てない」とロースは厳しく批判しました。
「統一感は要らない」
当時の社会を支配していた、「時代にふさわしい新しいスタイルの装飾で、トータルコーディネートされたインテリアでなければならない」という考え方。これに対する過激な批判として、ロースの「装飾は罪悪」という言葉は生みだされたのです。
それは必ずしも、「空間から装飾を一切なくすべきだ!」という急進的な主張ではありませんでした。彼は「装飾を新たにデザインするのは罪だ。でも必要があれば、過去の時代の装飾を利用することはある」とも言っているのです。次回以降にまたこの辺りのお話をしたいと思いますが、なかなか分かりにくいところです。
本題に戻りましょう。ロースはこう主張しています。
家は、住人自身が自分たちの歴史や思い出を刻みつけながら創り上げるもの。センスが悪くても様式がバラバラでも、住人にとって大切なもの、気に入ったものであれば全て置けばよい。そうして出来上がった「ごちゃ混ぜの空間」が、その住人だけのオリジナルな「様式」なのだー
モダニズムの時代も過去となり、様々なスタイルをミックスしたインテリアを楽しむことが普通になっている現代では、とても自然に聞こえる主張ですね。
それでは「装飾は罪悪」という言葉の意味は、家は住人のもので装飾や様式が主役になるべきではない、ということなのでしょうか?
それは一面的な見方でしかありません。この言葉には、それだけでは説明し切れない生理的な嫌悪感が感じられます。何しろ彼にかかれば、「皮膚に刺青をしている現代人は犯罪者か変質者。同様にあらゆるものに装飾を施す現代人も犯罪者か変質者」となってしまうのですから。
そこまで激しく非難する「装飾」や「様式」とは、彼にとって何だったのでしょうか。次はその辺りをもう少し突っ込んで考えてみましょう。そこから、「飾る」という行為の本質について少し思いをはせてみたいと思います。
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(文:maki / 更新日:2012.10.20)