このシリーズでは「装飾は罪悪である」という言葉で知られる20世紀初頭のウィーンの建築家、アドルフ・ロースの主張について考えてきました。今回はその最終回、私たちにとって装飾という行為がどんなものなのか、ひとつの仮説を立ててみたいと思います。
ロースが「性的欲求の表れ」と呼んだ装飾。でも、彼の言うように性的欲求から何かを飾るという人が多くいるとはあまり考えられません。
私たちのとっての「装飾行為」
私たちが、例えば自分の部屋の壁に絵をかけたり、花や集めているフィギュアやアロマキャンドルを置いてみたりする時、そこにはどんな動機があるのでしょう?
「部屋が可愛くなるから」「何もないと何となく物足りないから」仮にどこかでアンケートをとったとしたら、こんな答えが多く集まるのではないでしょうか。ここには、日常的な空間にちょっとした変化や逸脱を求める気持ちが表れています。
しかし、このサイトの記事を読んでいる方々にとって、部屋を飾るということはもっと積極的な意味合いを含んでいそうですね。「心地よく過ごすために、好きなものや雰囲気で部屋を満たしたい」とか、「自分の世界を創りそこに浸りたい」という動機をお持ちの方が多いのではないでしょうか。これは、「自分にとっての心地よさはこれだ」というアイデンティティを、部屋を訪れる人や自分自身に向かって表現、主張したいという欲求だと捉えられます。
装飾は「祈り」だった
ところで、過去の時代においてはどうだったのでしょう。人類の歴史のかなり長い期間において、何かに装飾を施すのは、それが象徴するものを崇めたり、あるいは願いを託したりするためでした。
例えば,vol.10~12で取り上げたゴシック様式の大聖堂の、目も眩むようなステンドグラス。
聖堂の内部をステンドグラスの光で装飾する行為は、地上に神の住む天国を再現しようとすることであり、神への奉仕活動そのものでした(実際にはもっと世俗的な動機も含まれていたわけですが)。
もうひとつ、全く違う例を見てみましょう。
右の画像は、私たち日本人にはおなじみの「唐草文様」です。縁起のよい文様とされ、数十年前まではどこの家庭にもこの文様の風呂敷がありました。
唐草文様は、生命力の強いつる草の茎や葉が、途切れることなく絡み合って伸びていく様子がモチーフになっています。一族がいつまでも廃れず、ずっと繁栄し続けるように。そんな願いが唐草文様の風呂敷には込められているのです。
装飾とは人類の愛すべき弱さの表れである。
さて、これらの例だけで装飾という行為の本質を考えるのはとても乱暴なことではありますが、ここでひとつの仮説を立ててみることにしましょう。
装飾という行為は、私たち人間の「弱さ」と深く結びついているように思えます。
部屋にものを飾ることで身の回りに変化を起こし、単調な日常から一瞬逃れようとする行為。自分がどんな人間なのかを部屋という空間を使って表現することで、ある種の安心感を得ようとする行為。または文様という「単なる図案」を縁起物として大事にし、それに自らの運命の安泰への願いを込める行為。すべて、自分という存在の不確かさに不安を覚えるところから来る営みだと考えられないでしょうか?
アドルフ・ロースは、「無装飾は精神の強さを意味する」と言っています。彼は(当時の知識層がおそらくみなそうだったように)近代の人間中心主義の思想に生きた人でした。人間の知性と技術で、全てのことは克服できると考えていた可能性が大いにあります。装飾という「快楽」に溺れる人間の弱さは、彼には醜いものに思えたのでしょう。
しかし、弱さとは人間の本質そのものです。決して克服すべきものではありません。人間が精神的に何かにすがらずにいられない弱い存在だからこそ、今世界には様々なすばらしい、面白い「装飾」があふれているのです。そして私たちは好きな時にそれらを見て、感じて楽しめるのです。私たちの弱さが私たちの文化を豊かなものにしてきた、と言えるのではないでしょうか。
「もう一歩深く知るデザインのはなし」、アドルフ・ロースと装飾論についてはこれで終了です。
次回からはウィリアム・モリスの「アーツ・アンド・クラフツ」と柳宗悦の「民芸運動」について取り上げていきます。
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(文:maki / 更新日:2012.10.20)