各国の建築デザイン・インテリアデザイン・プロダクトデザイン・グラフィックデザイン・インダストリアルデザイン業界の有名デザイナーを紹介していく、「デザイナーをもっと知ろう!!」シリーズ。
第28弾は、ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe)です。
"Less is more." (厳選された少ないマテリアルで、豊かな空間を作る)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献したミース・ファン・デル・ローエ。柱と梁によるラーメン構造の均質な構造体が、その内部にあらゆる機能を許容するという意味のユニヴァーサル・スペースという概念を提示した。
<経歴>
1886年 ドイツ・アーヒェンに、石工の息子として生まれる。
1900年 同市の工業学校に通う(~1901)
1902年 工房やアトリエに、ドラフトマンとして働く
1905年 ブルーノ・パウルの事務所で働く(~1907)
1908年 ベーレンスの事務所で働く(~1911)
1912年 ベルリンに事務所を開設(~1914)
1921年 ノベンハー・グルッペ(11月グループ)の活動に参加
マリア・ミハエル・ルードヴィッヒ・ミースから
ルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエに本名を改める
1922年 ノベンハー・グルッペの建築部門責任者として活動する(~1925)
1923年 雑誌「G」のグループに参加
「Less is More.」
1924年 ドイツ建築家協会(BdA)の下部組織「リング」を創設
1926年 ドイツ建築家協会(BdA)を脱退する
ドイツ工作連盟の副会長に就任(~1932)
1930年 バウハウスの校長に就任
1933年 ナチスの圧力によりベルリン・バウハウス閉鎖
1937年 スタンレー邸設計のため渡米(旅行を兼ねる)
1938年 アメリカに移住、シカゴのアーマー工科大学主任教授に就任
1944年 アメリカ市民権を取得
1958年 イリノイ工科大学建築学科主任教授を退職、設計活動に専念する
1969年 8月17日シカゴにて死去
"Less is more." (厳選された少ないマテリアルで、豊かな空間を作る)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献したミース・ファン・デル・ローエ。柱と梁によるラーメン構造の均質な構造体が、その内部にあらゆる機能を許容するという意味のユニヴァーサル・スペースという概念を提示した。
バルセロナ・パヴィリオン Barcelona Pavillion 1929年
バルセロナ万博において設計されたドイツ館。
鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配したもので、モダニズムの空間を実現したものとして建築史上有名。
なお同館のために、ミースがデザインしたバルセロナ・チェアも、モダンデザインの傑作として知られる。パヴィリオンは博覧会終了後に取り壊されたが、1986年に同じ場所に復元され、「ミース・ファン・デル・ローエ記念館」となっている。
トゥーゲントハット邸 Villa Tugendhat 1930年
トゥーゲントハット邸は、1928年から1930年にかけてチェコスロバキア(現チェコ内)のブルノに建てられた邸宅。
チェコスロバキアの機能主義的建築物の中では、最重要にして最も美しいものである。1992年には、チェコとスロバキアが分離独立を決めた際に、調印式が行われた歴史的な場所でもある。2001年12月にユネスコの世界遺産に登録された。
ファンズワース邸 Farnsworth House 1951年
四方をガラスの壁で囲んだファンズワース邸
彼が設計したいちばん有名な住宅であり、完成型ともいえる。求めた空間とディテールを実現するため、不思議な構造になっている。週末別荘として建てられたもので、建設費が当初予算を大幅に超えたため、施主のエディス・ファンズワースと訴訟沙汰になったがミースが勝訴した。
ベルリン国立美術館・新ギャラリー Neue Nationalgalerie Berlin 1968年
鉄とガラスのスタイルを確立した芸術的な建物。
ミースが米国亡命後はじめてドイツに建設した作品。1階部分はユニバーサル・スペースを具現化しており、地下が大きな美術館になっている。
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(文:インテリア情報サイト編集部-2 / 更新日:2011.09.03)