前回まで、日本に伝わった密教の曼荼羅2種類について紹介し、それぞれから受けるイメージを(主観的ではありますが)比較してみました。
そして、日本人には「胎蔵曼荼羅」のほうが人気がある、ということをお話しました。
これはなぜなのでしょうか。ここから話は、曼荼羅を離れて日本人の感性、意識の奥へと入り込んでいきます。
「日本人の感じ方」の根底にある自然信仰
日本では、「全てのものに霊魂が宿っている」という信仰が根強く残っています。
豊潤な自然に包まれて暮らしてきた日本人。
自然は人に恵みをもたらしますが、時に荒れ狂い、人の住む世界を一瞬で破壊する、恐ろしい存在でもあります。
日本人は、絶えず激しく変化する自然を「神々が宿る、敬うべきもの」として捉え、信仰してきました。(こうした自然信仰は、中国から伝わった仏教の「全てのものは変化し朽ちるもの」という思想とよくマッチしたので、日本では両者がうまく混ざり合って共に信じられてきたのです。)
(冒頭および上の縄文杉の画像:© Σ64)
そんな日本人が、胎蔵曼荼羅の「れんげの花→子宮→すべてを包み込んで育む」という「自然」に通じるイメージに、安心感を覚え好ましく感じるのは、ある意味当然のことと言えるかもしれません。
それは昔の人々も同じだったようで、空海は民衆に教えを説くのに、胎蔵曼荼羅のほうを多く用いたということです。
金剛界曼荼羅のほうがあとからできてより整理されていて、完成度が高いにも関わらずです。
胎蔵のほうが人々に感覚的に理解してもらいやすかったからということでしょう。
自然によって鍛えられた日本人の美意識
ところで、日本人の美意識を表すとよく言われる「簡素な」「削ぎ落とされた」デザインは、「わびさび」の思想からきていると言われます。しかしそこには、周囲の自然を引き立てて、自然との一体感を感じたい、という欲求も背景にあったのではないでしょうか?(このことを確かめるには「わびさび」や禅の思想もきちんと知る必要があるかも知れませんが。)
(画像中:©PlusMinus 画像右:©Tamaki Sono)
自分たちを取り巻く自然を全身で感じ、ありのまま受け入れながら暮らすことで、日本人の自然に対する観察力や感受性は磨かれてきました。
例えば昔の日本建築を訪れた時に、開け放たれた障子の向こうから入ってくる眩しい庭の緑に心を奪われるのは筆者だけではないでしょう。
室内にはあまりものを置かず、必要な時に必要なものだけをしつらえながら暮らす。その分、庭の樹々の緑の多様さや、風や光などを楽しむという習慣は、たとえそこに八百万の神を見ることはもうなくなっているとしても、自然に寄り添って暮らしてきた日本人の精神をそのまま表していると思います。
次回からは「茶室空間の光」についてです。
(文:maki / 更新日:2012.05.21)