このシリーズは、デザインの周辺にある事柄の背景を考えることで、読者の方々に「もっと知りたい」と思って頂くことを目指しています。
今回からのテーマは、「茶室×光」です。
日本が世界に誇れる文化のひとつ「茶の湯」。
それを営むための空間が茶室です。
茶室は、時代ごとにその姿を変えてきました。
そこには、茶の湯の営みにこめられた哲学や
美意識の変化が反映されています。
今回から3つの茶室の空間デザインについて、
特に光の扱い方を中心に調べ、
時代の流れに伴うその変化を探ってみたいと思います。
(画像左上:©Maechan0360 右上:© Phung Buu Doanh
左下:© ottmarliebert.com)
武野紹鷗の茶室と「明るさのデザイン」
武野紹鷗(1502〜1555)は、千利休の師匠だった人物です。「わび茶」の精神を推し進め、完成の下地を作った人と言えます。
彼の作とされる茶室で現存するものは僅かで、しかも本当に紹鷗作かどうかは分からないようです。ですが、彼の茶室空間のデザインについては文献からある程度読み解くことができます。
茶室にどんな明るさがふさわしいか、という問題を紹鷗はとても重要視しました。紹鷗の弟子、池永宗作の著した文献によると、彼は「茶室の中が明るすぎると、茶道具が貧相に見えてよくない。従って時間帯によって光が強くなる東、西、南向きの窓は避けるべきだ」と考えていたということです。(この頃の茶の湯は、珍しく美しい茶道具を茶室に展示してそれを客が愛でる、ということに重きを置いていました。)
紹鷗の茶室はみな、採光は入口の明かり障子だけでまかない、他の三方には窓がありませんでした。ですから、入口の方角が室内の明るさに決定的な影響を与えます。彼は強い光は茶室には適さないとして、北向きを選びました。
ところで室内の明るさを考える時、窓の方向だけでなく、室内の仕上げもとても重要ですね。 「山上宗二記」という文献の中に、紹鷗が作ったという茶室に関する記述が出てきます。下はその概略図です。
この茶室は「わびさび」的な表現へ移行する過程のような仕上げでしたが、壁に関しては伝統的な書院造のスタイルを守った、白い「貼付壁」(紙貼り)でした。
そしてここでも、採光の手段は北向きの入口の明かり障子だけでした。障子を通った光は、柔らかい平面的な拡散光になります。北向きですからあまり強くない光でしょう。その弱い光が和紙を貼った白い壁に反射し、室内は全体的に薄暗い感じになったと思われます。
光を抑制することは、精神性の深さを空間に醸し出す効果があります。彼は室内に飾られた道具がぼうっと、辺りに紛れて消えてしまいそうに見える、そんな薄暗さで「精神性」を表したのでしょう。しかしこの時代はまだ、その表現手法は窓の方角を北向きにする、ということだけにとどまっていたのです。
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「茶室は明るくしない」という、この基本的な考え方は後の千利休にも継承されます。利休はそれを劇的に発展させ、緊張感あふれる光の演出を空間に施していくのです。
次回は利休の「待庵」を題材に、その光のデザインについて探っていきます。
(文:maki / 更新日:2012.08.12)