前回は、待庵の開口部と、装飾を排除した壁の仕上げについてお話しました。そして窓の位置や大きさは、茶室内の全ての物事の「見え方」を考えて決定されていると述べました。
今回は、茶室から少し離れて、千利休が茶室の中で表そうとした「美意識」について考えてみます。
待庵西側外観の写真:©茶友会○(えん)
待庵に息づく「わびさび」の美意識
結論から言えば、それは「わびさび」という言葉で言い表されます。
今では「わび」と「さび」はひとまとめにして「古びて趣がある」といった意味で使われていますが、もともとは異なる2つの概念でした。「わび」とは本来貧しいこと、ものが乏しいことを指し、「さび」はもともとは古びて劣化しているという意味です。
千利休は茶の湯を通して、これらを美意識の域まで高めました。貧しいことをよしとする。地味で目だたないけれど丁寧に使い込まれた、数少ない有り合わせのものだけを組み合わせて、美しく味わいのある空間や時間を創造する。そしてそこに働く美的なセンスや、客人に寛いでもらうための気遣いなどを美しいものとして楽しむ。そういう態度を「わびさび」というようになったのです。
「待庵」の内部は、一見粗末とも思える荒壁に、塗装しない素のままの柱や床框などの部材…とにかく「飾る」という行為を排除した仕上げです。そんな、本質だけが剥き出しになったような室内が、自然の光の濃淡で彩られることで美しい表情を湛えた空間になるのです(自然の美こそ、貴賎問わず誰もが等しく味わうことのできる恵みです)。
まさに、贅沢せずに有り合わせのものだけで美を創造する「わびさび」の精神が体現されているのですね。
現代人と「わびさび」
ところで、ものに囲まれて慌しく暮らす私たち現代人の心の底にも、「わびさび」的な暮らしへの憧れが、多少なりとも刷り込まれているのではないでしょうか。
「断捨離」という言葉がありますね。いまやブームを超えて、すっかり定着した感があります。それ以前から、様々な切り口から書かれた整理術の本が出版され、ヒットしています。このことは、静かな「わびさび」的な境地を、現代人の心が必要としていることを示していると思うのです。
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる
(wikipediaより)
この3つを実践することで物理的、精神的に身軽になり、自由な心で生きることを目指す「断捨離」は、少ない有り合わせのものだけをうまく調和させて美を作り出そうとする「わびさび」の美意識へ私たちを導いてくれそうな感じがします。
でも、マスコミはインパクトを重視するあまり、「不要なものを捨てる」ことばかりを強調しているように思います。どんどん捨てまくって、片付いた部屋に感激しました―マスコミが問題にするのはここまでで、その後の暮らしについてはあくまで後日談として軽く触れる程度です。
ものや欲や執着を捨てたあと、いかに自分にとって必要なものを見つめ直し、安易な買い物をせず、手元に残したものを長く愛し、美しく活かしながら暮らすか。このことを考えることではじめて、わびさびの精神にも、断捨離本来の意味にも近づくのではないでしょうか(これは筆者自身への戒めでもあります…)。
次は、利休の弟子、古田織部の茶室についてお話してみます。利休が完成させた茶の湯は、彼の死後、時代の変化に伴い変質していきます。そしてそれに従って、茶室の表現も変化してくるのです。
(文:maki / 更新日:2012.08.12)